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能を習う

 

能には舞台芸術というだけでなく、お稽古事としての側面もあることをご存知でしょうか?

茶道や華道を習うように、能の舞や謡、囃子も、プロの先生から直接教わることができます。

先生に個人的に弟子入りしてお稽古するのが基本ですが、最近はカルチャーセンターで講座が開かれていることもあります。

実は三大芸能 (能・狂言、文楽、歌舞伎)のうち、素人がプロの先生に弟子入りしてお稽古し、発表会として舞台に立たせていただけるのは能・狂言だけなんです!

能と夢野久作

能を習うことの魅力とは何でしょうか。

『ドグラ・マグラ』等の小説で知られる作家・夢野久作(1889-1936)は、能(喜多流)の教授免許を持っていました。彼は「能とは何か」というエッセイの中で、能を習うことについて次のように述べています。

面白い文章ですので、長いですが引用してみます。

 

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 日本には「能ぎらい」と称する人が多い。否。多い処の騒ぎでなく、現在日本の大衆の百人中九十九人までは「能ぎらい」もしくは能に対して理解をもたない人々であるらしい。

 ところがこの能ぎらいの人々について考えてみると能の性質がよくわかる。(中略)

 

 「世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだから、トテモ退屈で見ていられない。(中略)お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取り集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……」

 と言うような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。(中略)

 

 ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞いか、謡いか、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。

 その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くない処が何とも言えず面白くなる。よくてたまらず、有難くてたまらないようになる。あの単調な謡いの節の一つ一つに言い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞いの手ぶりが非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現欲をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら、誰にでも謡って聞かせたくなる。処構わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。(中略)

  しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても、満足な返事の出来る人はあまりないようである。(中略)要するに、

「能というものは、何だか解らないが、幻妙不可思議な芸術である。そのヨサをしみじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持になるのか説明出来ない芸術である」

 というのが衆口の一致する処らしい。

 正直の処、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、これ以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実の処、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには「日本人が、自分自身で、舞いか、囃子をやって見るのが一番捷径」と固く信じている者である。

(夢野久作『能とは何か』より 出典:青空文庫)

 

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やってみて初めて分かる能の魅力。あなたも体験してみませんか?

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